2006/10/29

気がつけば。。。


友人に「イチョウはまだ全然色づいていない」と書き送った翌日の今日、
公園を歩いたら桜が少しずつ色づいて(?)来ていた。
今週は余裕がなくて夜しか樹を観ていなかったから気付かなかったんだなぁ。
この樹なんて、いつの間にか葉が落ちてる…。

足下をみると栗のイガや落ち葉の布団もちゃんとある。
でも全部が今年のものではないだろう。
樹のたくさんあるところでは、落ち葉は降り積もって、
長い時間をかけて土にかえっていくから、その途中。

あいかわらず鈴を転がしたように虫が鳴き、そして、鳥も。。。

頭が黒く、顔が白く、お腹に美しい柿色の羽を持った鳥をみたけれど…
今まで雀とカラスぐらいしか飛んでいないようなところしかうろうろしてこなかったので、
急にはわからない。
今度勉強しておこう。

2006/10/27

暖かさと寒さ


確か代官山の近く。裏通り。
はい、リアルタイムじゃなくなってます。
ブログなのに。。。(泣)
でも写真は仕方ないですよね。夕方時間が空いた頃にはもう日が沈んでいるんですもの。
たしか昨日の日の入りは16:53だったかな。。。
はやーい。

2006/10/26

雑草といえど…


されど…と、思う帰り道。。。

2006/10/25

気を許される


前回の猫写真よりちょっと仲良しな写真が撮れました。
すりすりっと寄ってきてくれました。
次回は被写体ブレしないようにガンバロー。

2006/10/20

ビル・ヴィオラ:はつゆめ

ビル・ヴィオラ:はつゆめ という展覧会に行って来ました。
(森美術館にて、2006.10.14-2007.1.8開催)

私は全く知らないアーティストさんでしたが、森美術館キュレーターさん達を、

毎回の手腕の凄さを信じて行ってみました。
とってもよかったです!

映像や音響の技術というのは、こういう風に活かしてこそ本当なんだよ!

と、見せつけられているようでした。
緻密であり、芸術的であり。。。

お勧めです。

2006/10/16

朝焼け


あぁこうして、いつも睨まれてしまうのですよね。。。
一時仲良くしようとしたってそうは行きませんね。。。

2006/10/14

『仏像』


PHOTO:ゴハンだよー


この写真とは何の関係もありませんが、秋の休日は一日一芸術と決めているので、
今朝は上野の
東京国立博物館『仏像』展を観に行って来ました。

一木から掘り出された仏像はどれも本当に美しくて、深かったです。

「職人とは名前よりも作品を残すものだ」

とは、台東区で有名なおろし金職人さんの言葉ですが、
本当に、作り手の名前すら残っていない名品の数々に心打たれてきました。
(もちろん名前の残っている作品も。)

仏像の彫り師さんのことを、芸術家と呼ぶか否か、とふと考えましたが、
やはり職人と呼ぶのがふさわしいと私は思います。
たとえどんなに独創的な仏像を彫っていても、です。
先日確か別の記事で、ピカソを職人呼ばわりしたテレビのキャストに私は腹を立てていたのでしたが、
職人には職人の素晴らしさがある。

例示なしではよく説明出来ないのですが、
職人とは、「あるべきそのものの姿を写し取る」
ということだと思うのです。
素材の声を聴き、何度も素材に立ち返り、素材の導く答えに忠実に、作品を作り上げていく。
それは即ち、職人はねじ曲げることをしない、ということでもあり、
自然を愛するということと同義のようにも思うのです。

このブログの一番最初の頃に、「工房アイザワのお玉」という記事を書きましたが、
あの無駄のないシンプルなお玉を愛する気持ちは今も私の中にしっかりとあり、
それはつまり、職人的な仕事への尊敬でもあります。

仏像は、そうした職人魂の、まさに結実したものだと言うことが出来るのでしょう。
なぜなら仏像の作り手にとって、仏像を彫ることそのものがまさに仏の御心を知ることにほかならないだろうからです。


…が、しかし、誰かに突っ込まれないうちに書いておきますが、
以前作曲家の鈴木輝昭先生との会話をめぐって、私は同じように、
「鈴木先生を支持した上で」「作曲家は素材の声を聴き、歴史を汲み取り、作曲すべきだ」ということを支持しました。
作曲家が芸術家であると認めた上で、そう書いたのです。
しかし今日の記事で私は、「職人とは即ちそういうものだ」と書いている。

うーん、どちらも撤回する気はありません。
芸術家を芸術家たらしめるもう一つの要素について、私はまだうまく論理的に説明出来ないんだな。
素材の声を聴くことの上に、さらにアイディア、またはアイデンティティのようなものが必要だ、
とまとめてしまうと、いかにも安っぽい議論になってしまう。

ただ、「職人」という仕事には、そういう「素材の声を聴く」という、
即ち人間としての根源的な作業がより多く、また深く必要とされていることは、やはり確かだと思う。


展覧会は12月3日まで開催。

2006/10/13

野菜を撮る


写真久々ですね。
どうも引っ越してから、モノとの関わり方が変わってきています。
パソコンやカメラといった、機械に触れる時間、減ったかも。

ともあれ、野菜を美しく撮れるようになったらいいなぁ、って前から憧れてます。
もっと撮る機会をつくってみよ~う。

2006/10/05

笛の音に癒される

「夕陽の写真とか、朝陽とか、一体いつもどこにいるの?」

というような質問を友人より頂きました。
…朝陽の写真なんて撮ったっけ?と、思っていて、
さっきブログを開いたら、そうだ、書きましたね、私。

「朝陽の中近所の公園で篠笛を練習する男性
立ち上るような一面の筋雲、…」

を、観たという話。

これはこの文の通りなんですよ。
休みの日に美しい朝陽をわざわざ観に行った、という特別な話ではなくて、
引っ越し先の近所の公園で平日の早朝篠笛を練習している方がいまして、
私が朝ヨガなんかのために朝陽の輝く早めの時間に家を出ると、
この笛の音がきこえてくる。
(いつもじゃないけれど、今までに数回遭遇しました。)
殺伐とした通勤風景の中に癒しなのです~。
電車が混んでいてもイライラしな~い。(^^)

もちろん世の中、働く人がいれば休む人がいるのですものね。
平日の朝の空いている公園で、集中出来るんだろうなぁ。

私もそのうちスタジオに行かないで公園で朝ヨガを密かに計画中!

歌は、…ちょっと勇気がいりますね。
楽器ってずるいなぁ。

いや、楽器だって、上手に吹いてくれているから癒しなのだし、条件は一緒かな??

自然に癒されるのは当たり前だけれど、
他人に癒される、というところが、都市生活の正しい味わい方のような気がして、
ちょっと嬉しい今日この頃です。
これを「うるさい」と思うことのない、自分のマインドも大切に。

2006/10/03

アマチュアの創造性

ある日テレビをつけたら、
ピカソについて語る番組が終わろうとしているところでした。

…が、内容を観ているか観ていないかは関係ない。
ある人が締めのコメントで言っていたことには、
「ピカソは相手の女性が変わるたびに作風も変化していったし、
普通プロというものはそういう私生活なんかで自分のスタイルは揺るがないものです。
ピカソはその意味でプロではなく、自分の人生そのものを作品に投影する、
実は偉大なアマチュアだったのかもしれませんね。」
というのです。

かなり自信たっぷりに「良いこと言ったなぁ~」というお顔で言い切っておられました。
んーーー、そうなの??

確かに作品はそうして変遷していっているし、そこに女性の影響はありありと感じられるけれど、
一作一作ちゃんと仕上がっているじゃないですか。
中途半端だとでもいうつもり??
そういうのってプロじゃなくてアマチュアなのでしょうか???
だったらプロって、一度プロになっちゃったらもう進化できないじゃないですか。
そうして変化していくことこそ偉大な才能だと、芸術の世界ですら認識されていない?
それともこの人が特殊な意見だったのか。

…何度かここに書いていますが、やっぱり芸術家は、
日々新たに決意し、表明するものだと私は思っています。
変化していくって大事なことだと思います。(退化は困るけれど。)
それが創造するという意味に直結していく。

そしてそれは、別に職業としての芸術家ではない私でさえも同じだと思っています。
こうして書いている文章もそうあるべきだし、書いていなくたって同じ。

変化しないって、怖い、ですよね???
40代になっても20代の顔のまま、とか。(^^;
そんなの美ではない。

変化していくことこそ美の真髄だと私はずっと以前から言い切ってしまっています。

この番組を観た後私はこのように、ピカソをアマチュアよばわりしたこの出演者に
ちょっと腹を立てたりしていたのですが、
さてさて、日曜日に合唱仲間の友人達と話していて一つ思い直したことがありました。

確かに「仕事」というのは、そういう面を持つものだ、ということ。
以前と同じ結果を出すことだったり、対価の分の仕事をすることを求められるのが当然といえば当然。
しかしそれは職人であって、芸術家ではない。
(職人は職人で素晴らしいものですが。)

すると芸術家になるには、あくまで仕事としてではなく、
生き方としてその道を選ぶしかないということかなぁ、と。

そうなると、確かにそれはアマチュアイズムと呼ぶべきものとイコールになるのかなぁ、
と思ったのです。

真の芸術家と偉大なアマチュアとはイコールである。
自分がもしプロだったらどう考えるべきかは別として、つまりこの際、
自分が偉大な創造性を秘めた「アマチュア」という存在であることを喜ぶべきだなぁ、
というのが日曜日の成果。

写真史においても、写真をただ「記録するもの」から、
「表現するもの」「楽しむもの」へと初めに変化させていったのは、アマチュアだったそうですし。

その理由はよくわかります。
アマチュアは、お金という理由付けがない分、「なぜ私は歌うのか」
「なぜ私は写真を撮るのか」「私にとって絵画とは何か」という問題を常に突きつけられている。
その意味では常に考える機会を与えられているからだと思います。

それだけに、反省すべき点も多々あり。
なぜなら、創造性を秘めながらも歴史を変えられない中途半端なアマチュアたちの欠点は、
その甘さにあると言えるから。
(いやもちろん才能とか、条件とか、色々ありますが、今自分にないものはとりあえず考えず。)
技術的な未熟さ、そして自己満足に終わりがちな見識の狭さ、または浅さ。
この両面からの努力と、真のアマチュアの精神が、芸術活動における最強、なのかなぁ。

などなど。
観劇、合唱、写真展、読書。
これら、今年の芸術の秋の経験からちょっと縒り合わせて書いてみました。

「ただのアマチュア」ではなくて「積極的なアマチュア」になるぞ、
というのが今日の私の表明、かな?