2006/04/29

cafe eight


2月にリニューアルオープンしたcafe eightへ。
場所は目黒区青葉台で、オープンエア部分からは目黒川の桜も見えて、
今は葉桜ながらなかなか和む立地です。

ベジタリアンカフェをここで紹介すると、私が今現在完全にそういう食生活を送っていると思われるかもしれませんが、そうでもありません。
ただ、ここの料理がちゃんとした理念に基づいて作られており、オーガニック食材にもこだわっていて安全であることは確かです。そしてその上で、美味しいのです。
HPの言葉を借りると、

私たちが提供しているビーガンフードは「悪いもの」を排除した"消去法の菜食"ではなく、気持ちにもカラダにも良いものを選んだら野菜にたどりついたという"ポジティブな菜食"です。
身体によくてかつオシャレなお店って、最近でこそ少しずつ増えてきましたが、ここは高いクオリティーで2000年にはすでにオープンしていたことを思うと新しい潮流の中においては草分け的とも言えるお店かもしれません。
私は外食が多くなって身体に負担だな、と思うと行くお店です。

一人カフェでゆったり過ごす時間って大好きです。
友達と来るのとはまた違う。
本を読んでもいいし、愛用の雑記帳に徒然に何かつづっていることも。
徒然にではなくまとまって考えておきたいことを真剣に書いている時もあります。
ボーッとすることにだって意義があると思います。
ボーッとする時は、必ず「その店に入った時よりも落ち着いた状態で出てくる」ことに決めています。(^^)

動物性を一切使っていないなんて言われなかったら気づかないくらい自然に美味しい料理(内容はいわゆるカフェめしのイメージとまったく同じだと思います。)を出すお店なので、ベジタリアンではない方にもとってもおすすめです。

よい休日をすごせました。

(PHOTO: ランチの後、日替わりマフィンをテイクアウト。今日は抹茶味で大きな豆がのっていました。買うときに、(店員さんが)「なるべく大きそうなのを…」と選んで渡してくださいました。手作りで個数限定です。心がこもっています。)

2006/04/25

写真展 『私のいる場所』



土曜日に東京都写真美術館へ行ってきました。
その日終了する写真展へ滑り込み。

「私のいる場所~新進作家展vol.4 ゼロ年代の写真論」

実は
LOMOGRAPHYに興味津々の私は、
その展示もあると聞いてぜひ行かなければ~と思っていた展覧会です。


なぜ撮るのか、という切実な理由。
それがなければ撮る意味がないのだということを強く感じさせる作家さんもいれば、
論理的構築から結果的にこう撮るのが必然でした、というタイプの方もいました。
それらはとてもプライベートな動機から発していつつも、
過去の歴史や、今という時間や、自分と写真との関係など、
いろいろ考えさせてくれるものでした。

また、みうらじゅんさんの爆笑写真の展示もあって、
(空耳アワーの写真版ですね。)
LOMOのカラフルで衝動的な作品もたくさん。
多様な表現と動機にふれることが出来、その全てがよかったです。
この美術館には3回来ましたが、いつも何かガツンと来るものに出会います。


どのように撮るかは問題ではない。むしろなぜ撮るかなのだ。
と言い切るAntoine d'Agata。(ラリー・クラークに師事した人らしいです。)
私もそう思うことがあります。
なぜその瞬間を写真におさめなければならないかという衝動や動機は大事。

ただ…技術はやっぱり必要なわけです。
私は今のままじゃ撮りたいものが出てきても表現がついていかない。(泣)
まだカメラ初心者です。。。

美というのは確かに天衣無縫ではあるけれど、それは緻密な計算のうえに成り立つはず。
ただ撮っているのではなく、技術的にパワーアップしていくためには
やっぱり勉強しないとダメですよね。。。
それに練習も必要。
そう、だから衝動なんて足りなくても、ちょっと綺麗かもしれないと思うと撮ってしまう。
そして、こんなところに載せちゃったりして。
でもあまり自分の中でハードルをあげるとここに1枚も載せられなくなっちゃうし。
表現と、衝動と、どちらも満たしたような写真がいつか撮れたらいいなぁ。

もう少ししたら勉強し始めたいのですが、
それまではぶらぶらパチリでゆるくやっていきます(^^;)

とにかく『私のいる場所』、非常に刺激を受けてよかったで~す。

2006/04/24

Earth day

花屋の店先を通ると、綺麗だと思うこともあれば、気分が悪くなることもたまにあります。

あれだけたくさんの命がまるで工業製品のように育てられ、出荷され、
あるいは切られてそこにある様子が、
それなのにまだ生きている、一輪ずつの花から発せられるエネルギーが、
限りなく負のものであるように感じられる時があるからです。

ある時はあまりに弱々しい命と向き合うことに対する辛さであり、
逆に発するものがあまりに強力で、受け止め切れずに目を背けることもあります。
花々がどのように扱われてきたのか、それぞれの店や日によって違うせいもあるでしょう。

自分が開いている時と閉じている時があるように、
花も同じようにしているのだと思います。


また、そんな認識を持ちながら別の日にそれらの花を美しいと感じると、
一体美という感覚とは何なのかという疑問にもつながっていきます。

自分の中でそれらのことについて結論は出ているようでもあり、
また矛盾を抱えていることも、事実です。

テレビ東京の「
ガイアの夜明け」を観ました。
「花という市場はまだまだ宝の山」なのだそうです。
まだまだ、地球が元気になる日は遠いのか。。。
目の前の、できることを一つずつするだけですね。



4月22日は
アースデイ

リアリティー



ソメイヨシノが散ってしまったら、それ以外の桜や菜の花も木蓮もまだ残っているというのに
急に東京で花を撮るということの意味が自分の中で失われてしまいました。

単純。

春の初めに感じていたような上昇のエネルギーを今は感じることができません。
やはり桜の力は偉大だな、と思う一方で、季節を感じる力の足りなさに自分でがっかりしています。
季節とは、花だけのことではないので、そのすべてにおいてですが。

私達は常に四季を感じて生きるべきだと思うのです。
それが人間としての本来性を取り戻すことにつながるのは当然のこと。

それは生易しいことではなく、生きることに必要不可欠であるという意味だと思います。

日々呼吸をすること、

今自分がどこにいるのかを感じること、

そして何を食べ、何を食べないかということ。

感じなければ死にさえつながるとても切実なことです。



歩こう。。。

葉の茂る新しい季節を感じることが出来るだろうか。
その本物の葉を常に欲することがないくらいに?

2006/04/22

東郷神社



原宿駅から明治通りへ抜けたかったのですが、
思い切り竹下通りを突っ切ろうとしてしまったため土曜日の大混雑に巻き込まれ、
東郷神社を抜ける道へドロップアウト。

狛犬が好きなので撮っていたら本殿から太鼓の音が。

やがてその本殿から伸びた赤い毛氈の上を向こうから
神主、笙、篳篥、横笛、巫女、赤い大きな傘、白無垢、紋付き袴…

たまたま境内に部外者は私だけ。
行列が本殿の中に吸い込まれて扉が閉まると、辺りは急に静まりかえってしまいました。
まるで目の前を狐の嫁入りの行列が通り過ぎていったような(?)不思議な感覚。
(写真は、あえて載せません。。。)


この神社は日清・日露戦争で活躍した
東郷平八郎提督を神として祭った神社です。
東郷自身は生前
乃木神社建立の際、将来自身を祭る神社建立の計画を聞いて、
止めて欲しいと強く懇願したそうですが。

敷地内には兵士たちの慰霊碑などもあり、
色々と考えさせられる
靖国神社と似た雰囲気を持った神社でした。

…そういえば参拝するということは思いつきませんでした。
この本殿の中に神となった東郷平八郎が本当にいるのでしょうか。

2006/04/21

お天気



天気がいろいろに変わった日でした。

曇っていて
雨がざあっと降って
晴れて
雲が全部なくなって
夏のような日差しも降り注ぎました。

そのすべての変化の後に、やっとゆっくり空を見上げました。
日が長くなってよかったな。

2006/04/17

明かり


上手い人の写真をみると、自分の写真をぜーんぶ捨ててしまいたくなります。

けれど、そんな風に言っているうちは一歩も前進できないし、
たとえ一流の人を前にしても、自分は常に自分のありのままで向き合うしかないですね。

それは写真だって、歌だって、知識的なことだって、社会に生きていくということのすべてが同じ。


目の前のチャンスを逃さないように、
出来ることも、出来ないこともすべて、その時の自分を自分自身が受け入れること。


それが出来るかどうか試したくて、ちょっとブログを公開し始めてみました。

2006/04/15

友との語らい

夜って、思いのあふれてくる時間だな

2006/04/11

曇りの日のお悩み


先月PHOTO IMAGING EXPO 2006へビッグサイトに行った時に撮った写真です。

曇りの日って、どっちを向いて写真を撮ったらいいかわかりません。
しかも桜って白っぽいのでよけいメリハリがつかなくて。

曇りの日の野外撮影のコツを教えてください。師匠!


追記:
これをみた友人に「レントゲン写真みたーい」と言われました。
その通りだから何も言えません。。。

2006/04/10

工房アイザワのお玉

モノを大事にしたい、という想いは、自分への願いでもあります。
そんな願いをこめて、今日は私のとても大事にしているものを紹介してみます。

工房アイザワのホーローハンドルお玉。


このお玉の魅力は一体成形で継目がなく衛生的なところ。
そしてこの「継ぎ目がない」という特徴が、なんともいえない美しいラインを生み出しています。
これってすごい技術のようです。
だってステンレスで継ぎ目がなかったら普通把手が熱くなるでしょ。
そうならないために把手部分は空洞で熱が伝わりにくくなっています。
液体を掬う「お玉」の部分は正円ではなく楕円で、鍋などの縁に沿いやすい形です。

う~ん、とにかく綺麗です。
そしてポイントはやっぱり、「手に馴染む」ということ。

この工房アイザワという会社にはいろいろと代表的な作品があり、
中でもうるし塗りのカトラリーのラインが

1986年にニューヨーク近代美術館永久保存デザインコレクションに選定されている

ほど、デザインには定評のある日本の誇る工房です。

そしてそんな工房アイザワのお玉と私との出会いは?というと、ずばり
「一生モノのお玉にこだわって調べに調べ、探していたら出会った。」
ただそれだけです。
うーん、行き着くべくして行き着いたのではないかしら。

私達は消費社会にどっぷりと漬かっています。
そこから完全に抜け出すのは容易なことではないし、特に日本人は江戸時代には大切にしていた職人文化を疎かにし、今やその文化が風前の灯火となっている現状におかれています。

いくらモノを大切にしろと教えられても、大量に生産されたモノに対して一つ一つどれだけ愛情を注げるかと言ったら、やっぱり難しい。
私も捨てたいモノをたくさんたくさん持っています。
そしてつい気軽に買ってしまったモノもたくさんあるし、これからゼロにするのはとてもとても長い道のりです。
(気に入ってないからと言って使えるものを捨てたら本末転倒。)

でも、せめてこれから買うもので、これから先ずっとつきあっていくものは、本当に愛せるものを選びたい。
そういう風に意識が変わり始めてから、何年か経ちました。
このお玉は、多分4年くらいのおつきあいかな?

これのおかげで、みそ汁一杯つくるのだってものすご~くシアワセな気持ちになれますし、これを使うたびに、モノの作り手と自分、そして目の前の料理との関係性(つながり)を感じることができるし、モノを大切にすることはこんなに自分のシアワセにつながるんだな~と実感することができるのです。

偽善ではなくそれらを実感として自分に内包することが出来たのは、この愛するお玉のおかげ、という部分がとても大きいです。
いつもいつも、そんなことばかり深く考えはしないけど、いつも小さな幸せをくれるこの小道具を、今日は文章の主役にしてみました。


「工房アイザワのモノ造りとその姿勢」

 モノづくりで忘れてならないことは、そのモノがなぜ「存在するか」ということです。なぜ「必要か」と、言葉を置きかえてもよいでしょう。それを原点として、たえず原点にたちもどり、そのエキスをどうくみとるかは、つくり手の「感性」です。
 モノづくりの過程で必然的に、機能と美が要求されます。しかも機能と美は、一卵性双生児のように、それぞれ切りはなせるものではなく、機能的に豊かなものは美しく、又、形の美しいものは機能的である、という原則から、のがれることはできません。これをもう少し具体的に表現すれば、装飾性を削ぐ作業に徹する、ということになります。削ぐことで、モノに生命をふきこむ、といってもよいでしょう。

                              工房アイザワHPより。