2006/08/22

表現しないと生きていけない


PHOTO: 金魚ねぷた折り紙


今回の旅行中の色々な経験から、
私、作品を作ってみようかな、って思い始めました。
デジカメで撮った写真は、画面で観るだけなら電力以外一切かからないので、
とっても安くあがる趣味なんですけど、
やっぱり時に何かの形にするところまでやらないと、
作品とは言えないですよねー。

それにやっぱり写真には色々な性質があって、
ここに載せているみたいに1枚ずつでも良い場合もあれば、
1枚では意味がなくても組写真にすると良かったり、
スライドショーにするとよかったり、
引き延ばさないとだめな写真もあれば
マッチ箱みたいに小さくしたほうが良い写真もあるんですよね。

一つの形式をある程度継続してみたくて今のブログの形式を選んだのだけれど、
それだけというわけにはいかないみたい。
写真を撮る技術だけで写真が成り立っているわけではないんですねぇ。

歌仲間との旅で、音楽について考えたり、
写真を観たり絵を観たり、建築を観たりしていて、
やっぱり、自分のやれることならどんな表現手段も
使っていかないといけないのかもしれないと思ったんです。

写真を撮り続けているだけじゃなくて
結局最後には絵も描かなければならないのかもしれない。

奈良さんだって、ドローイングや立体造形であんなに表現出来るのに、
写真も撮っている。

有名な写真家のアンリ・カルティエ・ブレッソンは多くのスケッチも残している。

なぜ?
描かざるをえなかったからとしか言えないと思います。

自分が今考えていることをこうして文章に残すことは、
自分自身が欲していることであるように、
歌だって、写真だって、ヨガだって、
やめようと思えばいつでもやめられるという単純なものじゃなくて、
そういう表現をしないと多分私は生きていけないからそうするんじゃないかな、と漠然と感じる。
だからどれもこれも、単なる「趣味です」と言ってしまうことを私は好まない。

雑記帳に毎日いろんなことを書いています。
その日その日を記録して忘れないようにしたいから?
いや違うなぁ。
自分の今考えていることを残しておきたいからというのは当たっている。
それに、今まさに生まれようとしている「考えの入り口」を失わないようにメモしておいたり。
明日へとつなげていくためだったり。

歌うことによって、今の自分の感性がどういう振れ幅を持っているか、
深度はどれくらいか、
どれだけ打つとどれだけ響くか、
敏捷性はどうか、
自分の軸から自分がブレていないか、
色んな事を確かめてみる。

そんな風に、純粋に歌うこと、合唱すること自体が好きというよりも、
歌っていない大部分の時間帯の自分、
そもそもの自分というものの本体が歌うことを必要としているから歌う。
自分にとって音楽というものがそういう意味を持っていることは、
ずーっと前から知っていた。

奈良美智さんが言っていたっけ。
自分は職業としてこの道を選んだというよりも、生き方として選んだということだ。

生き方として…
その点だけなら、私も同じだ。
例えばヨガだって、もはや生き方として選んでいるとしか言えなくなっている。
ただ、それらを職業にしていない「だけ」。
(もちろんそこには海よりも深い違いがあることはよくわかるけれど。)

職業にしないからといって、一つ一つの表現を深めていく努力、
技術を増していく努力は大事だ。
でもそれと同じくらい、表現手段を多く持っていることも大事なように感じる。
上手いとか下手とかじゃなく、それらはなりふり構わずしなければならないと思う。

かっこつけている余裕なんて全然なくて、
たとえば祈ることと同じで、
必要な時に必要なだけ、必要なやり方で。

さて~、どんな作品作ろうかな~。

でも生まれてくる目の前の作品は、
きっと趣味とよべる小さな楽しみなんだろうけどな。(^^;

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